【カラー化】大正時代 紡績工場の女工 エピソード Japanese female workers in color in 1926

【カラー化】大正時代 紡績工場の女工 エピソード Japanese female workers in color in 1926

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storia café
14 回視聴·2023/04/14

大正時代の紡績工場の女工さんの様子。
都市の「紡績工場(綿糸)」は、近代的な設備です。
女工哀史で描かれる農村にある絹(生糸)を作る「製糸工場」とは雰囲気が違います。

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【綿(めん)糸と、絹糸の産業構造の違い】
☆映像から分かるように、
大衆向けの綿(めん)の糸を作る紡績(ぼうせき)会社では.
「(インドから輸入した)綿花」を機械で加工して、大量生産していました。
ただ、綿糸(めんし)の「単価は安く」、
海外の企業、特にイギリスと価格競争になりました。

→当時のイギリスは、産業革命が成功し、資本家(銀行や経営者)たちの強い要望に、政治家が動かされて、
綿製品の市場(マーケット)や資源を求めて、軍隊の力を使って、世界に植民地を強引に拡げていました。(=帝国主義)
そこに日本が挑戦して市場を奪う形になってしまい国際的な経済紛争の原因になりました。

☆一方で、富岡製糸場や映画「あゝ野麦峠」など女工哀史(じょこうあいし)の話で有名な、絹(きぬ)は全く事情が反対でした。
絹の糸は、生糸(きいと)と呼ばれ、蚕(かいこ)という蛾(が)の幼虫が吐き出す「繭(まゆ)」が原料です。
「国内での原料調達」で、かつ、農村の手先の繊細な(過酷な労働に耐える)女工さんを使ったので、原価が安く抑えられ、商品はアメリカのお金持ち向けの「高級品」だったため、利益幅が大きく、日本のドル箱商品で農村の花形産業でした。

大正時代〜昭和初期(昭和4年頃)までは、アメリカ経済が繁栄していたので、それにあわせて、品質の良い日本の絹の需要はとても高く、日本の蚕糸業は黄金時代でした。

この頃は、全国で農家の約4割が養蚕(ようさん=蚕(かいこ)の繭(まゆ)を育てる仕事)を行い、特に群馬、長野、山梨では、農家の7割が養蚕(ようさん)農家でした。

※絹糸(=生糸(きいと))の製糸工場では、
養蚕(ようさん)農家が作った繭(まゆ)を湯に浮かべてほぐし、それを農村の女工さんが手作業で丁寧に糸を取り出して巻き取り、商品にしていました。(=糸取り)
生糸の品質(均一な糸の太さなど)は、彼女達の繊細な感覚が頼りでした。

【まとめ】
綿糸と絹糸、この「2つの糸」は、戦前の日本を代表する輸出品でした。しかし、原料、製法、工場の立地、価格、利益率、労働環境まで全く反対の性質の商品でした。

【戦前の天然繊維の時代→戦後の化学繊維の時代】
綿→ポリエステル
絹→ナイロン 
羊毛→アクリル
※絹に似た「レーヨン」は、天然繊維を溶かして作るため「再生繊維」と呼ばれます。
戦前に発明され、東レ、帝人(帝国人造絹絲)などの社名の一部にもなっています。

※1938年(昭和13年)、米国の科学者カロザースによる、日本の絹糸(生糸)を超える品質の化学繊維「ナイロン(NYLON)」の発明は日本にとって衝撃的な出来事でした。

→ナイロンの名前はNo-run(伝線しない)が由来ですが、当時の日本の有識者の一部では、当時アメリカが苦々しく思っていた日本の「農林(NOLYN)省」の反対の読み方ではないかと噂されていました。(俗説)

※戦前、綿糸の原料となる「インド産の綿花」は、日本郵船の運輸航路(ボンベイ航路)によって日本に輸入されていました。

☆戦前から現在にまで残る繊維会社
東洋紡、日清紡、積水化学、東レ、帝人、クラボウ、ユニチカ、カネボウ(?)、旭化成などがあります。

☆戦前に「六大紡」と呼ばれた6つの会社は、
東洋紡・日紡・鐘紡・富士紡・日清紡・日東紡です。

☆渋沢栄一は、大阪紡績会社(現在の東洋紡)という日本初の機械式紡績会社に大きな資本を投じました。

☆戦前の大阪は、紡績会社のメッカとなり「東洋のマンチェスター」と呼ばれました。

☆【在華紡(=中国に進出した日本の紡績会社)について】
→在華紡(ざいかぼう)の中国進出は、日中間で様々な摩擦を引き起こすことにもつながりました。

1923年、中国の「旅大回収運動」(旅順と大連を日本から取り戻す中国国内運動)をきっかけとして、「日貨排斥運動(日本製品を買わない運動)」が起こりました。

1925年には、上海の在華紡の労働者のストライキがきっかけとなり、五・三〇事件が起こりました。

1931年の満洲事変ののち、満洲国が建国されると、紡績連合、日本政府、南満州鉄道が共同出資して、「満洲綿花協会」が発足し、中国産原綿を確保しました。

日中の対立が満州事変・第一次上海事変・日中戦争と展開するにつれて、日貨排斥(日本の製品の排除)の動きは、さらに激化しました。

特に、1938年の青島(チンタオ)攻防戦では、在華紡(ざいかぼう)の地域が戦場となり、青島の在華紡は事実上、潰滅(かいめつ)しました。